こんにちは。
東京池袋東口徒歩1分ジャズポップス専門音楽教室セプテンバーミュージックスクール代表の細川です。
前回の音楽でプロになる、仕事を得る、成功する。どうやって? その1はもうお読みいただけましたでしょうか?
今回は演奏家の皆様はもちろん、特に、作編曲やプロデュースなど、制作にも興味のある方には大いに参考になる内容かと思います。
私が、作曲家、編曲家としてどのような道を歩んできたのか?
どのようにして作編曲の仕事につなげていったのか?
これからの時代、稼げる音楽家になるために必要なことは何か?
さらにプロデュースなど、活動の幅をどのように広げてきたのか?
そんなお話しにしてゆきたいと思います。
私がちょうどプロの世界に足を踏み入れた30年前にも「もう新しい音楽は出てこない」とか「もう終わっている」などという業界人は多くいました。
しかし、音楽を目指す人にとって、それが理由でプロの道を諦める人などいるのでしょうか?
「それでも自分は音楽で喰って行きたいんだ」という一点の強い気持ちにほかなりません。
プロを目指している方にこのブログは大いに参考になる事だと信じています。
アマチュアの方も、プロがこれまでどんな意識で日々を重ね、人と出会い、現在に至るのかを垣間見られる一端になる事でしょう。
今回は少し長い内容ですが根気よく読んでいただければ幸いです。
専門学校で音楽理論の講師になった
CM音楽制作の現場で1年間、作曲家のアシスタントを務めた期限もそろそろ終わり。
その頃、私の卒業した専門学校M音楽院から講師をやらないか?とお声をかけていただきました。
担当はコンポーザー・アレンジャー科。ここで音楽理論やジャズ理論、アンサンブルを主に担当することになりました。
音楽理論やジャズ理論は私も学生の頃、授業を受けて一通り理解しているつもりでした。
しかし今度は教える立場となりました。
理解しているつもり、では仕事になりません。
この時期に音楽理論、ジャズ理論は徹底的に勉強をし直し、生徒様から授業の後に、どんな角度から質問が来ても応えられるよう、研究しました。
このブログの最後に私がお勧めする理論書を列挙いたしますのでどうぞ参考になさってください(こちら)。
専門学校で一番勉強するべきは「生徒様」なはずですが、教える為により深く勉強を進めるのは「先生」なのですね。(笑) 私はここで「教える」という仕事を通して深く学びなおす機会を与えていただけました。
2年目にはコンポーザー・アレンジャー科の主任を務めることになりました。
生徒様の時間割から他の講師の年間の授業の進め方まで私が管理してゆきました。
また生徒様とも距離が近く大変楽しい日々を過ごしていました。
しかし、この頃には私は「ここに長くいてはいけない」という気持ちになってきました。
だって私は自分の初志を何も成し遂げていないのだから。。
このまま先生を続けることは出来るだろうが、私が本当にやりたかったことは、ジャズ演奏家になる事だったり、作編曲で作品を残すことだったり、ジャズ以外にも新しい音楽を創りたい、今時でいうプロデュースといった事です。
丸2年講師としての生活を送りましたが、終止符を打つことにしました。
でもこの時、もうひとつ心に誓ったこともありました。
「音楽家としてしっかりと活動してきた暁にはもう一度、教える仕事に戻ってくる」
と。
教える仕事は私にとって天職とも思えた幸せな時期でした。23歳の春の事です。
夢には近づいたが、お金が無くなった
半年ほどは仕事が無かった。。
学校を辞めた春に、ある方からの紹介で演歌歌手CD制作のアレンジとトラック制作の仕事を請け負いました。
いわゆるレコードショップには流通しないCDで、業界で言うP盤と呼ばれるやつです。
「プライベート盤と呼ばれ、大手レコード会社が、お金さえ払えばCD作ってあげるよ」
っていうビジネスモデルの仕事です。
初めてCD制作で編曲家として自身の名前が載りましたが、正直全然嬉しくありませんでした。
「お仕事で音楽制作をした」という実感しか無かったわけです。
その後、目立った仕事も来ず、生活がどんどん苦しくなってゆきました。
この時初めて音楽以外のアルバイトを経験しました。
「お中元の配達」を2週間くらい。
「遺跡発掘調査」を1カ月くらい。。
とても厳しい先の見えない日々だったことを覚えています。
お金も底をつき、銀行口座のカードローンの限度額まで現金を借りました。
それを返す日々。。ほんとにしんどいことになりました。
毎日この先どうなるのだろう、と思って過ごしていました。
余談ですが、遺跡発掘調査は後の私の古地図収集や街歩きといった趣味と合致してゆく大変興味深い仕事でした。
因みに私が担当した発掘現場は、江戸時代、尾張徳川家の下屋敷の跡地。
そう、現在の防衛相庁舎建設予定地でした。
遺跡発掘の話もしたいのですが、コンセプトがずれるのでもう話しません。(笑)
プロデュースの面白さを知る
M専門学校で教鞭を執っている間にも、いろいろな仕事をこなしていました。
当時中国から歌手の留学生が来ていました。彼女は自分の人脈があるので楽曲制作などプロデュースをして欲しいと願っていました。
当時の講師陣ともこの状況を共有し、彼女のプロデュースチームを作り、スタジオレコーディングを行ったり、NHKの中国語会話のTV番組への出演なども果たしました。ここでは作曲もアレンジも、トランペット演奏もしました。私もバックバンドで出演しましたよ。
また空前のカラオケブーム前夜という時代でした。それまでカラオケといえばメディアはレーザーディスクでしたが、通信カラオケという新しいインフラの整備が始まったいわば黎明期でした。
講師の仕事を辞めた後、この通信カラオケ制作の仕事が私に入ってきました。
空前のカラオケブーム到来と通信カラオケ黎明期
ところで皆さん、カラオケってどうやって作られているか知っていますか?
音楽には原盤権、出版権など様々な権利(著作権)が存在します。
そもそもカラオケとは一般的な場合、レコード会社が握っている原盤権という権利をクリア(支払わなくて済むようにする)するため、そっくりな音楽を作る必要がありました。これがカラオケ制作の始まりです。
これまでのレーザーディスクカラオケは今でいえばDVDが流れているだけだったのですが、マルチバンド(多チャンネル)シンセサイザーが普及したため、MIDIで制作し新曲を全国に配信するといったスタイルの新しいカラオケ制作が始まった頃でした。これが通信カラオケの始まりです。
画期的だったことはオリジナル曲と同じアレンジ、キーもテンポもメロディーの大きさも自由に変えられる事でした。これまでは無かったことです。しかも豊富な曲数。
通信環境もまだADSLなどのナローバンドしかない時代。楽曲1曲のMIDIファイルの容量は200Kbもあれば十分でした。ブロードバンドになった現在も基本的にこのスタイルで行われています。(ここについてはまた細かく書きます。)
因みに私は今、現存している大手メーカー全ての新規立ち上げに関わりました。
そして立ち上げプロジェクトチームでも仕事をするようになりました。
いまではどのメーカーも20数万曲のラインナップです。
でも立ち上げの時にはどのメーカーも数千曲程度でビジネスインしました。
数千曲作るのに十数億円というプロジェクトマネーが投資されていました。
それほど世の中の期待は大きい仕事だったのです。
カラオケに触れる話の中ではメーカー名や制作会社等の固有名詞は挙げません。
後にかなり突っ込んだ業界裏話までしようと思っていますので。
これほどの一時代を担った産業がほぼ記録として残されていないのですから。
このままでは誰も語らないままでは、過ぎ去られ、時代に葬られてしまいます。
そうはさせません。
これは私が徹底的に後世に残して行こうと思っています。
これからの音楽家のために。
時代の潮流に合う事は音楽家でも稼げる仕事につながる
通信カラオケ制作黎明期はほとんど平成に元号が変ると同時期に始まりました。
カラオケ制作で必要なスキルは以下です。
「CDに収録されているすべての楽器を自分の耳で聞き取れて全て譜面に起こせる技術を持っている事」
「ギターの調弦の知識を持ち、何のコードでも1絃から順番に音程を聞き取れる知識を持っている事」
「上記と同様全ての楽器の音域を知っている事」
「パソコンとMIDIシーケンスソフトとインターフェースを持っていて使いこなせる事」
「MIDIの知識とシンセサイザーの知識を持っている事」
「ミキシング&レコーディングエンジニアリングの基本的なスキルを持っている事」
。。もう挙げるときりがありませんが、最低限でもこれだけの技術と知識が無ければ仕事になりません。
当然、満足に制作出来る人は限られています。
私はこのすべてを満たすスキルを持っていました。というか揃えました。
ギターも買ってコードをほぼ覚えて弾けるようにしました。
ですからじゃんじゃん仕事が入って来たのです。
パソコンは必須スキルでしたが当時は白黒画面のMac classicが70万円もした時代です。
カラオケ業界で一番スタンダードに使用されていたパソコンはNEC製のPC-9801でした。
それでも30万円以上もしました。シンセサイザーも20万円~30万円とまだまだ高価な時代でした。
それを購入しないと仕事が出来ませんでした。
23歳の頃の話です。
私は19歳の頃からこういった機材をひとつひとつ購入する為ローンで買って支払っていました。
半年ごとにひとつづつローンを組んで購入。ひとつ終わるとまたひとつローンが始まる。そういった生活を長くしていました。
おそらく高級車の値段くらいは払ったでしょう。本当にお金は機材に飛んで行きました。
こういった下地が既にあったため、通信カラオケ制作は私のところにどんどん入ってくるようになりました。
時代は私のような存在を欲していました。
要は「作れる人がいない」訳です。しかもちゃんと作れる人がいなかったのです。
これは新規ビジネスの成長期にあたる部分に身を置くことになりました。肌でこの時代を感じたことはとても意義深い経験となりました。
時代の半歩先を歩けたからこそ仕事が沢山舞い込んで来たのだと、今はそう感じています。
これがどの業界でも、特にこれからの音楽業界で生きていくには必要な事です。
しかも型のない時代がやってきます。
音楽家としてのスキルがあるなら、半歩先の時代は何なのか、その情報を的確に収集し良く考える事、そしてそれを実行出来るだけの行動力が必要です。
特にこれからの世代の方は自分でその道を切り開いてゆくチャンスの時代でもあるのです。
徹夜続きの過酷な制作現場
カラオケ制作、自身のライブ活動や音楽制作(これについてはまた詳しく書きます)、M専門学校の常勤講師は辞めましたが、非常勤講師という形で週1日だけは仕事をしていました。
仕事はまだインターネットが普及していませんでしたので、完成したデータはフロッピーディスクに保存して事務所まで電車に乗って届けるという、いま考えるとなんとも馬鹿馬鹿しいやり取りをせざるを得ない時代でした。(笑)
当時僕はよく「徹夜」をして仕事をこなしました。24~25歳の頃が1番多かったですね。
この仕事を始めると寝る時間も無くなるほど忙しくなる理由はこうです。
カラオケ制作の仕事を受けた時は当然、すべての手帳の上では廻せるスケジュールで受ける。
それも休みなく目一杯受ける。
しかしリテイク、という「修正してください、やり直してください」という状況が発生する。
もちろん、私の技術が足りなくてこういう状況になるのですが、これが重なると本当に寝る時間も無くなったものでした。
これは一番ひどい時の話ですが、月曜日朝起きてから木曜日の夜まで一睡もせず徹夜が続いた日々もありました。
本当か?と思うでしょうが、嘘だと思うなら当時の私を知っている人に聞いてみてください。
まあ、過酷を極めた仕事でしたがこれは私自身がいずれカラオケ以外の楽曲制作の仕事を取りたいという一心からやっていました。
トータルで私はカラオケ制作は70,000曲以上に携わりました。
これは私が今、ジャズビッグバンドのアレンジをしたり、TVCMやBGMの作曲、細川玄ジャズクインテットへの楽曲提供、、全てにおいて、アレンジの仕方、J-popの楽曲の仕組み、ヒット曲には法則がある事、そして何よりも歌謡曲からJ-pop業界の25年間に渡る定点観察をしてきたという事が私への大きな力に変換されているのです。
金銭的に安定したから自分の音楽が作る余裕が出てきた
こういった仕事を通して、金銭的には一定の安定を持ち、自身のやりたい音楽制作やライブ活動をする基盤を作って行きました。
25歳の時には、初めて自身がプロデュースする女性ボーカルポップスユニットを作りました。
原宿Ruido(今はもうない)などを中心に出演していました。
作編曲はもちろん私、そしてトランペットも演奏します。
バンドを組み、メンバーにはギャラを支払い、経費も全て自分が持つ。
今の私がしているスタイルの基本がこの頃には出来上がってきました。
そしてメンバーが変っても自分の音楽をほぼほぼ変わらないクオリティでステージで演奏出来る、というスタイルもこの頃の事がヒントです。
私が最初に声をかけた女性ボーカリストは、とにかく時間にルーズな人でした。
何度言っても行動が改まりませんでした。
しかし、彼女がいなければ私のユニットでの演奏活動が成立しません。
私がやりたくて始めた事なのに、他人の存在がいないと成し遂げられない。なんか変ですよね。
この時自分自身が中心で動けるスタイルでないと全てがうまくいかなくなる、という事も学びました。
プロフェッショナルな人間を見つけられる目も養われたと思います。
音楽制作の技術、人を見極める目、そして人を動かす技術。これらを持ち得ていないとだめなのです。
人脈が結果的に活動の場所を広げてくれる
アマチュアバンド活動はライブではいわゆる「対バン」と呼ばれる1夜に4~5組みが出演するスタイルのブッキングに加わり演奏していました。
これは、同じく夢を抱えて切磋琢磨しているバンド仲間との出会いや横のつながりを大いに広げてくれました。
自身の活動をしていて、私の音楽を評価してくれる仲間が出来る、そして彼らからアレンジや演奏の依頼が来る。
こういった形で人脈が広がって行きました。
この頃、もう1つ特筆すべき活動をしていました。
それは、中国上海へ向けた音楽制作活動です。
中国が経済開放政策を始めた頃で、天安門事件の数年後の事です。
感度のいいアンテナを持っている中国人はどんどん日本に来て活動の幅を広げていました。
まだ地下鉄も高速道路もテレビ塔もない時代で、地面は土埃だらけの上海に何度も足を運ぶことになりました。
その頃私は「中国に行くなら正露丸と靴磨きセットを持って行け」と人に話していました。(笑)
M専門学校時代、私が副科で教えていた「ソングライティング」という作曲にまつわる技術を教える授業を取っていた上海出身のKさんがいました。私より年上の生徒様です。
彼は現在誰でも知っている芸能プロダクションのプロデューサーをしていて日本スタイルのアイドルグループをアジアで幾つも作ったりしている人物です。(ここまで言うとわかっちゃうな)
上海で放送されるラジオ番組の制作を日本で始める
彼は、私のパソコンの打ち込む指のスピードを見ていつもびっくりしていました。
私の音楽制作に信頼を寄せてくださっていたのです。
そんな彼は私のところに仕事の話を持ち掛けてきました。
「上海で流れるラジオ番組の制作を日本で出来ないか?」と。
私の自宅には前述した通り、マイクも録音機材も(当時はDATと呼ばれるデジタルオーディオテープがマスターだった)も揃っていました。
ラジオならクオリティも全く問題なく制作が出来る環境が整っていました。
ほどなくしてラジオ制作を始めることになりました。
私と彼がパーソナリティを務めて日本で発売されているCDを流す、という仕事でした。
唯一のキャシュポイントは、ラジオCMのクライアントの仕事を彼が持ってきて、私がCM音楽の作曲とトラック制作、ナレーション録音、歌録音、歌手ブッキングなど全てを担当。そしてオンエア。納品後初めて現金が入る。この程度の事でした。
ところが色々問題がおきました。それは著作権の扱いが宙ぶらりんのままだったからです。
手掛けたCM制作は私が作るのでもちろん問題ありませんが、既成CDをオンエアする事に待ったがかかったのです。
私が直接話を受けていたわけではありませんが、
JASRACから著作権を払わないなら番組放送はしないで欲しいと言われたそうです。
そう、相手は中国です。いまでもそれほど実情は変わっていません、ご存じのように。
一方、レコード協会のようなところからは「CDが売れるからじゃんじゃんやってくれ」
というような話もあったそうです。
基本それぞれの立場でそれぞれの言い分をするわけで。一見ルールがあるような業界だが以外と緩い部分もある。
垣間見えるこういったことから、音楽業界のビジネスという事も少しづつ勉強することになりました。
「カラオケ制作」
「自身のバンドプロデュース」
「M学校の非常勤講師」
「上海でのラジオ制作」
という、もはや肩書が何かわからない音楽家になってゆきました。
しかもカラオケ制作以外、ほとんどお金にはならなかった本当に苦しい時代でした。25歳くらいの頃の事でした。
続きは次回のブログで。
P.S. 巻頭でお話したお勧め理論書です。
大変参考になった本がいくつかありましたので紹介しておきましょう。
「楽典」「新しい楽典」音楽之友社
これはもう定番中の定番ですね。高校時代にすでに全て頭に入っていました。
そしてジャズ理論を勉強するのに大変役に立ったのが
「ジャズスタディ」渡辺貞夫 ATN.inc
「コンテンポラリー・アレンジャー」ドン・セベスキー ATN.inc
「コンプリート・アレンジャー」サミー・ネスティコ ATN.inc
上記の三冊を挙げておきます。
もう一冊どうしても欲しかった本がありました。
「サウンズアンドスコア」ヘンリー・マンシーニ ATN.inc
この本は当時、和訳本が無かったと記憶しています。どこに行ってもありませんでした。
以下軽く説明を書いておきます。
「ジャズスタディ」は独学でこの本一冊を買ってきても理解することは難しいと感じています。
おそらくこの本の前段階で「楽典」がしっかりと頭に入っていることが前提となりますね。
ただこの本を先生と一緒に理解することは大変有効だと思います。
当スクールでもこれらをしっかりと学ぶコース、ジャズ理論&コードアナライズコースがありますし、
ジャズアドリブマスターコースでも、コードは必須、理論についても覚えていただくレッスンとなっています。
理論はジャズアドリブを理解する上で大変有効な手段ですが、私の場合は作編曲に大いに役立ちました。
街では音楽が流れていますよね。どこに行っても流れています。
一度聞いただけでも、その音楽の造りを理論で整備した、頭の中のラベル分けされた引き出しの中に効率よく閉まっておく場所を作ることが出来るのです。
上記の本は発売から数十年が経った定番ですが、最近大変わかりやすく編纂された理論書も買いました。
「初心者のための実践ジャズ理論」 野田正純著 田中健次監修 サーベル社
理論の内容が変わることはないのですが、新しい本はより理解しやすい観点で書かれている印象です。
いま私の生徒様にはこの本を勧めています。
先生と一緒に短期間で集中してジャズ理論を習得することは後々の長い音楽人生において圧倒的に有利になりますし、コンプレックスを抱えることもありません。
当スクールのジャズ理論&コードアナライズコースでマスターしましょう。
「コンテンポラリー・アレンジャー」ドン・セベスキー ATN.inc
この本は楽器の音域など大変わかりやすく書かれていることが最大の特徴です。
今ではネットで調べることも出来ますがアレンジャーの観点から相性のいい楽器などの小さなコメントが大変参考になります。
「コンプリート・アレンジャー」サミー・ネスティコ ATN.inc
巻頭のプロローグを読むだけでも価値のある一冊です。
サミー・ネスティコと言えばカウントベイシー楽団の作編曲を担当した大作曲家です。
その彼がどんな心境でアレンジと向かい合っていたか、アレンジャーとして(音楽家としてとも言える)どんな心構えが必要なのかを真摯に書いてあります。
そしてCDが付属していてアレンジした音とスコアを実際に見ながら研究が出来るようになっています。
私はこの本を本棚から出すと時が経つのを忘れて聴き入り、見入ってしまいます。
あっという間に夕方になります。(笑)
飛行機(お勧め)や新幹線で長距離移動するときなどに携行し、ヘッドフォンで付属CDを爆音で聴きながらじっくりスコアリーディングを楽しむのが私流です。(笑)
どうぞ参考になさってください。
東京池袋東口徒歩1分ジャズポップス専門音楽教室
セプテンバーミュージックスクール