こんにちは。
東京池袋東口徒歩1分ジャズポップス専門音楽教室セプテンバーミュージックスクール代表の細川です。
前回の
音楽でプロになる、仕事を得る、成功する。どうやって? その1
音楽でプロになる、仕事を得る、成功する。どうやって? その2
はもうお読みいただけましたでしょうか?
今すでに出来ている道(ビジネスとして確立された仕事)の後を歩くこと以外に、選択肢が無いと思っている方は多いと思います。
「どうやって音楽で喰っていくんだ?」
良く聞く言葉です。
この質問の裏には、今ある音楽業界の世界しか見えていません。
しかし、わたしが今回語りたいのは、「自分で道を創る、切り開く」ことも出来る、という事です。
もしかしたらこれは、この役割を与えられた人にしか出来ないことなのかも?という想いも少しあります。
与えられた人かどうかを見極めるには、困難に直面した時に「それでもやり遂げてやる」という想いがある人。
今、この記事をこの先も読もうと思った方は、きっとやり遂げられる方です。
そう思って自分自身の道を歩いている人はきっとこの役割が人生に与えられているのだと思います。
なんか、スピリチュアルな方向に話がなりかけましたので、本題に戻して行きましょう。(笑)
ジャズジャイアンツが続々と日本に来て演奏をしていた
高校を卒業して、私は都内の専門学校に進学しましたので、活動の拠点は東京になりました。
ジャズを演奏するスキルを日々磨いていました。
19歳の頃はアドリブもまだまだ、なんちゃってアドリブ演奏だったと思います。
今のようにYouTubeやDVD、インターネット環境もありませんでしたが、TVでは来日ジャズミュージシャンのライブ中継が沢山ありました。NHKも日テレもフジテレビも東京12チャンネル(現在のテレ東)も。ビデオテープに録画して何度も何度もみました。
ジャズのスタジオ収録の番組もありました。
なんだか今では考えられない時代が当時は当たり前のようにあったのです。
日本は空前のバブル社会でした。
私にとってこのバブルがとても良かったなあと思えたことは、アメリカから、ジャズジャイアンツが沢山日本に来日して演奏を行っていたことです。それは紛れもなく大手企業のスポンサーがジャズに理解があり、その文化を日本に直接紹介しようという機運があったからこそだと思います。
そんなジャズジャイアンツの演奏を生で聴く機会を多く得られたことは、私の人生の中で恵まれた事でした。
大規模なジャズフェスティバルと言えば、オーレックスジャズフェスティバル、マウントフジジャズフェスティバル、斑尾ジャズフェスティバル、それからアンダーザスカイ、などそれはそれは、今では考えられないくらいの規模でアーティストが来日していました。
マイルスデイビス、スタンゲッツ、ハービーハンコック、フレディハバード、ウディショウ、もう挙げるときりがありませんが、沢山のアーティストの演奏を生で観て聴くことが出来ました。
ジャズミュージシャンを目指しているからこそ、このような場所に行き、生のコンサートに通ったわけですが、このシーンを生で観て体感してその現場に身を置いたこの頃、いくつか私の頭の中に疑問が浮かんでいました。
クリエイターとしてふと疑問に感じた出来事が
マウントフジジャズフェスティバルを観に行った会場での事です。私が19歳の頃です。
確かグレートジャズトリオ(ハービーハンコック、トニーウィリアムス、ロンカーター)が演奏していて、ショーも後半になってきたころです。
大勢の人たちがコンサート会場の後方で、お互いの肩を抱き合いながらイェーイ、イェーイ!と音楽に合わせて楽しそうに練り歩いているのです。もちろんお酒は入っているでしょう。
ジャズに詳しい方ならお解かりと思いますが、グレートジャズトリオの演奏で練り歩く雰囲気にはなかかならないものです。でも、音楽を聴いて、踊りたくなった人たちは踊っていたのです。
この時私は、思っていました。
彼らが今欲しい音楽は、これに近いけど、本当はこれではないのではないか?と。
ジャズを聴いて、酒を飲んで騒ぎたいけど、ピッタリの音楽が無いのではないか?
これは本当に私の感覚です、直感です。しかい大いなる「違和感」を感じたのです。
それが何なのか当時の私にはわかりませんでした。
またまたクリエイターとしてふと疑問に感じた出来事が
それから、こんなこともありました。
都内の小さなジャズクラブに、私の音楽専門学校の先生が演奏するというので、ジャズを聴きに行きました。
先生はヴォーカリスト。編成はギター、ピアノ、サックス、ベース、ドラムだったと思います。
何かのスタンダード曲を演奏していた、ショーがまだ始まったばかりの頃です。
ヴォーカルがワンコーラスを唄い、その後ギターのソロになりました。
ギタリストは一通り自身のソロを演奏し終えるとヴォーカルのテーマへと戻しました。
その直後の事です。
演奏中彼は、自分のソロが終わるとギターを座っていた椅子に置き、店の扉から外へ出て行ってしまいました。
皆、いいえ、少なくとも私は何が起こったのかわかりませんでした。
その曲が終わりヴォーカリストはMCで「出て行ってしまいましたね。。戻ってきてくれるのかな?」
と苦笑い。
彼抜きで、次の曲の演奏を始めました。
ほどなくして演奏中、出て行ったギタリストが戻ってきました。
手ぶらで出て行ったはずの彼の手には、たばこの箱が二つ。
何事もなかったかのように演奏に加わりました。
しかも彼は「サンダル」履きでした。
サンダルが悪いわけではありませんよ。
ヨレヨレのポロシャツ、くたびれたジーパン、お手洗いでよくお見掛けするタイプのあの「サンダル」というコーディネートでした。
あの光景は私の中に強く(悪い意味で)残りました。
ジャズだから自由でいいね。
という人もいるかも知れませんが、私は強くこのムードに嫌悪感と危機感を感じました。
僕があれだけ憧れていたジャズの世界、とりわけ日本のジャズ界は、こんな状態なのか、と。
ロンカーターがニューヨークの小さいジャズクラブに出演していたら、こんな振る舞いをするだろうか?と。
もちろん、全てのミュージシャンがこうだったという訳ではありません。ごく一部だと思います。
しかし、本当にがっかりしました。
「夢を感じない」「ルックスが汚い」「緊張感がない」
これ、エンターテイメントとして考えれば最低です。少なくとも私にとっては。
はっきり断言します。
お客さんはお金を支払い、いわば「非日常」を買ってこの場所にいるのです。
この感覚が極めて欠落している、そう感じました。
いい音楽、いい演奏だったのかも知れません、この夜。
しかし私は最低な気分で帰宅しました。
「こんな世界に行きたかったわけではない」
ただただそう感じていました。
面白いクリエイターWさんとの出会い
演奏活動などを通して、仲間も沢山出来ました。
私が中学生の頃大好きだった、RCサクセションで演奏していたサックス奏者のUさんとも共演の機会を戴き、バンドにも誘ってもらえました。その後何度も演奏する機会に恵まれました。27~28歳くらいの頃の事です。
前回までのブログで前述した通り、私はジャズトランペット奏者として演奏活動するほか、自身のバンドを率いてライブ活動、そして作曲、編曲、トラック制作をもしていました。このいずれの活動においても「ジャズ」というフロントエンドに変わりありませんでした。
そういう活動をしていると、ジャズ以外にも人脈が広がり、私以外のサウンドクリエイターやDJなどとの繋がりも多くなってゆきました。
ジョンゾーン「COBRA」という実験音楽を理解し集うクリエイター
ジョンゾーンという現代音楽作曲家がいます。
彼の作品の中に「COBRA」というものがあります。
「東京作戦」と題してこの演奏会はシリーズ化され、様々な方が演奏をしていました。
私もその「東京作戦」に何度か出演させて頂きました。
この話は本筋でないのでざっと書きます。
「COBRA」という演目は決まった曲やメロディーなどは一切ありません。
演奏者がその場で即興で演奏したことを、プロンプターと呼ばれるいわば指揮者の役割をした方があらかじめ指示の書かれたパネル(プロンプト)を提示し、演奏者がその指示に従いさらに即興で音楽を創って行くという、なんとも実験的なものでした。
ジャズや音楽のジャンルを超えて集まってきたクリエイターは後に現在の日本の音楽シーンを牽引する人物を多数輩出しました。
こうした枠にとらわれない活動は、音楽というものの多様性、音楽を創る、演奏する、表現する、音楽にまつわる全ての人々への理解を深めました。
音楽とはとても広く、様々な価値観によって演奏されているということを理解する、とても重要な出会いと出来事だたのだと、今はそう思えるのです。
ここで共演したWさんという作曲家、DJの方がいました。
Wさんは今でも時々意見交換をさせていただく盟友であります。
「オール」を楽しむクラブイベントにジャズ嗜好者は沢山いた
Wさん、彼は当時、DJとして大阪、京都、時には東京で自身がオーガナイズするクラブイベントを開催していました。
だいたい月イチくらいのペースだったと思います。
そのイベントは、今では当たり前ですが、DJが音楽を流し、VJが映像を流し、バンドが演奏をする、というスタイルのイベントでした。
しかも当時は「オール」というスタイルがほぼクラブイベントの遊び方としては定番の時代でした。
「オール」とは、おそらくオールナイト、の意味だったと思います。
22時 オープン 29時クローズ
バンドは24時と26時に演奏しました。
26時のフロアの盛り上がりは最高潮でした。
平たく言うと夜通し踊って遊んで、明け方始発で家に帰る、といったスタイルの遊び方です。
言っておきますがここにいわゆる「不良」や「反社会的」な人物はひとりもいませんでした。
純粋に音楽とお酒と出会いを楽しんでいたのです。
しかしこれは今や昔話。
数年前に日本の法律が変りました。いわゆる「風営法」。
関係者のご努力は書き尽くせませんが、このスタイルの遊び方は出来なくなりました。
とても残念なことだと思います。
ペレス・プラードがクラブに爆音で降臨した
ミレニアム(2000年)頃の事だったと思います。
当時クラブイベントでDJはハウス系という「四つ打ち」と呼ばれる、一定のパルスを感じられる音楽で踊る、というのが主流でした。
ジャズの気配はこのシーンにはほぼありませんでした。
ここで私に衝撃的な出来事が起こりました。
京都のクラブに出演していた時の事です。23時頃だったでしょうか?
DJのWさんはぺレス・プラードの代表曲「マンボNo.5」を流しました。
しかもクラブイベントですから爆音で聞きました。
「なんとかっこイイ音楽なんだ」と。
いまはサルサブームもあり、びっくりする話でもありませんが、当時は完全に昔流行った曲、といったイメージのものでした。少なくとも私はそう思っていました。
ところがクラブで聞くとなんと新鮮なサウンドに聞こえることか。。
そして、会場にいるお客さんもおそらくペレスプラードの事など知らないで踊っている事でしょう。
とても盛り上がっているのです。
これは今私が15年に及び参加させていただいている「afrontier」というモンスタージャズアフロイベントへ繋がります。
これについてはまた別の機会でしっかり書きますね。
そして我々のライブもWさんがトラック制作したものをベースに演奏を行いました。
「ウォーターメロンマン」や「テキーラ」などのいわば「かつての名曲」をハウスアレンジして演奏したのです。
これは、ジャズを知らないお客さんたちに大変受けました。とてもとても受けていました。
この時私は思いました。
「ジャズを聴きたい人は沢山いる。ただ、今は場所とそのサウンドが合致していないのだ」と。
これは大いなるヒントになりました。
僕が次に目指したいものは決まった。。
この夜の思いは私自身の本当の道を見つけられた夜になりました。
そして決意します。
ジャズで踊りたい人がいる、それはジャズとダンスの原点に他ならない。
では、それを私が現代にマッチした作品に作曲し、プロデュースし、演奏し、世に出そう、と。
「自分のアルバムを創って世に出そう」、と。
続きは次回のブログで。
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