こんにちは

 

東京池袋東口徒歩1分ジャズポップス専門音楽教室セプテンバーミュージックスクール代表の細川です。

音楽でプロになる。なった人はどういう道を歩んできたの?

これ、みなさんが一番知りたい事ではないでしょうか?

もちろん100人いれば100通りの道があったことだと思います。

その中でも私は少し人とは違う道を歩んで来たなあ、という思いがあります。

もし私の「これまでの道」を書くことで、少しでも後進の方のお役に立てればと思い、ここから先ブログを綴ってゆくことにしました。

音楽の道を目指す中学生、高校生、大学生、そして音大在校生、そして音大卒業生の方、このブログが少しでもあなたの参考になればと想いで書き進めてゆきます。

 

冷静に俯瞰して今の音楽業界を見てみよう

今全国でプロミュージシャンは1万人いると言われています。

そのなかで生活出来ている人はその1割と言われています。

近年はプロオーケストラの数も減少の一途をたどり、

またジャズポップスシーンでもプロのジャズビッグバンドやスタジオレコーディング、テレビでの仕事は激減、CDの売上は落ち、配信など売り上げ全体を含めても市場は縮小しています。

(しかしながらオンデマンドなど、包括契約という形のものは伸びています。)

 

超有名アイドルプロダクションは、タレントのデビューとCDデビューは別にする、と宣言をし、今までのタレント=CDリリース、の図式はもはや過去のものとなりつつあります。

業界の頂点であったメジャーレコード会社でさえ、カラオケなどを展開しているエンターテイメント制作会社に買収され、新しい道を余儀なくされていますし、一時期バブルだったカラオケ制作などの仕事も最盛期から見れば比べ物にならないくらい市場は縮小しました。

音楽業界全体の構図が変わっているのです。この現実を受け止める事が大切です。

 

音楽業界のこれからは速い速度で変化してゆく

今、AI(人工知能)などの進化で、音楽業界のみならず、かつて「無くならない」と思われていた業界まで、急激なスピードで変化して来ています。

音楽業界もマネタイズ(お金が生まれること)のタイミングもかつてとは変化してきています。

演奏して、ギャラを頂く。昔は封筒に入って手渡しで、または振込で。

大変シンプルな商売の構造ではありましたが、このイメージだけでこれから音楽業界で生きてゆくことは難しいと思っています。

それはどんなに演奏が上手であっても、これら今までの構造の中に入って仕事をすることだけを考えれば、それはどんどん難しくなってゆくと考えています。

これは30年間商業音楽分野で活動してきました。もともと変化の速い音楽業界という事も私が仕事を始めたころ感じておりまたが、今まさに次への「変わり目」を肌で感じる現在なのです。

これはピンチ?いえ、チャンスでもあります。それはあなたのアイデア次第で。

 

自分の可能性を限定しない。新しいアイデアが自身の可能性を創る

前回までのブログでも書きましたが、私は子供の頃からジャズ、ポップス、ソウル、R&Bが好きで小学生で始めたトランペットは中学生になった頃には「プロになる」と決めていました。まあ子供心な無邪気なものですが。

しかし、アンブシュアを崩し、トランペットで仕事を取ってゆくことは困難の連続でした。

それでも私はトランペットを吹き続け、やがて世間は私の事を「プロ」と呼ぶようになり認めてださるようになりました。

認めていただくまでには世間にはほとんど公表しなかった「商業音楽家としての私」がありました。

そして自分自身の「立ち位置」を自ら決め、それを創っていった事だと思っています。

商業音楽家?あまり聞きなれない言葉ですよね。

でもよく考えてみてください。お金を頂くという事、これは仕事の大小、営業の内容にかかわらずこれすべて「商業」なのです。

 

「音楽でプロになる=今すでにある仕事に入り込む」

多くの方がこの方程式を頭に浮かべると思います。

しかし、前述しましたが、「今すでにある仕事」はこれから先あるとは限りません。

またあっても急激にその姿を変える可能性があります。

でもこれは良くも悪くも「変化」なのです。

変化は世の常です。なにも特別な事が起きているわけではありません。

私はこれまでの事を振り返り、自身で時代に柔軟に変化して来た事、そして自分の信念を失わなかった事、この2点が自分を支えたと信じています。

なにより自分を限定せず、新しいアイデアで次を切り開くことがとても重要だと思っています。

 

人と違う道を辿った私。それはきっとこれからのヒントになる

私は多くのプロミュージシャンが辿った道とはかなり違う道を辿りました。

なのでこれまでは「自分の話などしても仕方がない」と思っていたのですが、この世の中の変化を感じ、ここ数年を過ごしているうちに、

これは多くの方にも「こんな生き方、道を探る方法もあるのだ」というヒントになるのではないか?という思いになりました。

ここからは私のこれまでのお話をしてゆきます。本題は私が18歳になった頃から詳しく書きたいと思っていますが読み進めるうちにクエスチョン?が付かないために、それまでをざっと書いておきたいと思います。

しばしお付き合いを。

 

トランペットとの出会い

小学生の頃、確か10歳くらいの事だと思います。私はトランペットと出会いました。

全校朝礼の後、退館する生徒に鼓笛隊の先輩が吹いていたトランペットに心が震えました。

雷に落ちたような瞬間でした。

この頃の話は「トランペットのアンブシュア崩壊した私 そして再起までの軌跡1~最終回」までに詳しく書いておきましたのでこちらをお読みください。

 

中学生の頃には作曲、編曲にとても興味があって作品を作っていた

中学生の頃の私はすでに「プロになる」と決めていました。そんな当時私は某音楽教室のトランペットコースに通っておりコルネットで有名なY先生のレッスンに通っていました。

私はY先生のレッスン後に単刀直入に聞いてみました「プロになるにはどうしたら良いのですか?」と。

先生の答えはこうでした。「先ず高校を卒業しなさい」と。(笑)

 

中学の頃は、ジャズ、作曲、アレンジ興味を持つと同時に他の楽器にも興味を持ち、実際にあれこれ練習を始めました。

中学では合唱コンクールがあるとなれば、進んで作曲をし、2年生、3年生のコンクールの時には私の作曲作品を私自身が4声にアレンジしてクラスみんなで歌いました。

そしてエレキベースも始めました。人生で初めて組んだバンドは中学生の時、私はエレキベースを担当しました。

トランぺッターになりたい、というよりは音楽を創る人になりたい、と漠然とこの頃から思っていたような気がします。

ピアノのレッスンも受けました。確かポピュラーピアノコース、という名前だったでしょうか?

ここで私はコード(7thまでかな)を習得しました。これは大いに私の音楽の世界を広げてくれました。ぐんぐんと作曲をする意欲も湧きました。どんどん作品を書きました。

こういうレッスンはとても有意義だと思い、当スクールでもこの方法を取り入れたピアノコースを開講しています。詳しくはこちらを見てくださいね。

ピアノコース

トランペット アンブシュア®矯正&プロも通う池袋のジャズ専門音楽教室

 

高校進学と吹奏楽部入部

私は東京生まれの東京育ちですが、父の仕事の関係で中学2年生から高校卒業までの5年間を浜松で過ごしました。

高校は静岡県立浜松商業高等学校という、後に吹奏楽の強豪校となる学校に進学しました。

私が一年生の頃、永年指導する吹奏楽部を全国大会に導いていた遠山栄一先生(平成30年春の叙勲旭日双光章受賞)が赴任して来られました。

私にも部活推薦がかかり、この学校に進学する事にしました。

このタイミングで浜松市内のとても上手な生徒も沢山入ってきました。

トランペットも僕よりうまい同級生ばかりでした。

しかし私はアンブシュアを崩し、私は全国大会はもとより、コンクールに出場することすら叶いませんでした。

本当に悔しい、悔しい想い出しかない高校時代でした。

トランペットでは本当に結果の出ない悔しい時代となりましたが、私はこの間にピアノを練習したり、作曲や編曲を積極的にしていました。それはトランペットと同じくらい興味があったことだったのです。

そう、同じくらいです。

作曲は当時、五線紙スコアにすべてを書くか、家にあったラジカセ2台を並べ録音してデモンストレーション演奏を作る位しか方法を知りませんでした。

自分でピアノを弾き録音し、それを流しながら反対側に置いたラジカセにエレキベースを弾き録音し、最後にトランペットを重ね作品を作っていました。

進学の頃には、自身は作曲とジャズを習得したいと思いでいっぱいでした。

 

東京の音楽専門学校に進学、そこでカリスマとの出会い

そして私は東京の音楽の専門学校M音楽院に進学しました。

コンポーザー、アレンジャー科と当時呼んでいましたでしょうか。作編曲を専攻しました。

もちろんトランペットも吹いていました。

ここで私はMIDIと出会いました。今では死語ですが当時はコンピュータミュージックと呼ばれ、音楽制作の最先端の技術をここで学ぶことになりました。

ざっくりですがMIDIとはMusical Instrment Digital Interfaceの略です。

電子楽器をデジタルで制御する道具、といったところでしょうか。

後にハードディスクレコーディングが出来るDTMと呼ばれる黎明期の頃の制作から私は携わることになりました。

 

ここで私が大きく影響された音楽家がM音楽院で講師を務めていました。

ジャズトランぺッターとしてデビューし、TVCMの作編曲などで大活躍をしていたM先生でした。

後に椎名林檎さんが音楽プロデュースをしたリオオリンピック閉会式で「君が代」をアレンジして世間をあっと言わせたカリスマ、というか「カルトヒーロー」と呼んだほうが断然しっくり来る唯一無二のミュージシャンです。

 

私にとっては、まさに私が目指したい人物像が目の前に現れました。

そして圧倒的なカリスマ性。。

私はすぐに彼に弟子入りして、彼の練習方法や作曲方法、音楽業界での立ち居振る舞いまで全てを見習う事にしました。もう本当に無謀です。でもこれで良かったと思っています。今でも。

 

アシスタントから業界の仕事がスタートした。毎日凄腕のミュージシャンの演奏を聴いた日々

そしてM音楽院卒業、時はまさに昭和から平成に変わったばかりでした。

時代はまだまだバブルの時代。TVCMも最盛期でした。

今では考えられない事ですが一日にCM3本のレコーディングは当たり前の事でした。

毎日朝から晩まで、レコーディングスタジオで会う凄腕ミュージシャンの演奏を聴くことが出来ました。

 

余談ではありますが世の中は丁度その頃、美空ひばりさんが亡くなり、騒然としていました。

私は毎日ミニバイクで「ひばり御殿」が近くにある幹線道路を通っていました。

訃報のニュースが流れた朝、いつもは静かで穏やかな旧山手通りは、神泉から代官山まで、右も左もびっしりと、弔問で訪れていた黒塗りの高級車が並んでいる、まさに異様な風景でした。

あの頃を象徴する忘れられない出来事でした。

 

TVCMの制作現場で作曲とはどういうモノかを学んだ

アシスタントの仕事は最初から1年で終わり、と決めて始めました。それはM先生も同意でした。

M先生は私をアシスタントと呼んでいました。

与えられた仕事は先生の車(左ハンドルのサーブ)を運転してスタジオまで行く、という仕事でした。

それでも私は毎日トランペットを持って行きました。

レコーディングスタジオという所は幾つもブースで仕切られていて、レコーディングが終わった後、録音した音を整え商品として完成させるトラックダウンという工程の間があります。

TVCMの場合はだいたい、30分から長くても45分位でしたね、当時は。

この時間はレコーディングスタジオは空くのです。

関係者に都度許可を戴いてこのブースに入り、私は自身の練習の時間に充てていまいた。

時々、からかいがてら僕の演奏を指導してくれるプロミュージシャンもいて、それはそれで大変生きたアドバイスを戴けた貴重な時間でした。音楽のアドバイスも、それから音楽家の姿勢としても勉強になったものでした。

 

アシスタントとしての1年、その後すぐ実践で仕事を迎える事になった

CM制作の打ち合わせやレコーディングすべてについてゆき、毎日毎日有名ミュージシャンの演奏をスタジオで聞く日々。時には有名芸能人の方とお会いする事もありました。

独特の現場の緊張感、そして現場のスピード感などすべて現場で学びました。

CM制作の打ち合わせ現場というのは主に、広告代理店、演出家、そして作曲家の3人同席して、(時にはクライアントもいる)音楽の方向性について話し合います。私も当然同席している訳でして、M先生と同じ話を聞き、同じ絵コンテが配られ、私にも同じく考える時間が与えられる訳です。

そしていつしか私は、M先生と同じ条件で自分なりに「CM作曲作品」を作ることで研鑽を積めるぞ、と考えるようになり、仕事としての表現力を磨くために、毎回毎回自宅に戻ってから深夜まで作曲をしました。

当時のパソコンで8トラックしかないシーケンサーでMIDIをプログラムしてシンセサイザーを鳴らして作るのです。

そして現場でM先生の作ってくる「本物」と自身の作品を比べている作業を毎日行っていました。

それはもう毎回圧倒的にM先生の勝ちです。もしコンペだったら。という毎日の想い、と少しづつ表現力が上がって行く自分も同時に感じました。

これは後に、自分自身の作品を作って世に出すことや、商業音楽のなかで作曲編曲などの音楽制作をする上でとても生きた勉強となりました。

 

そして、アシスタントを終える期限の1年が近づいてきました。。

 

続きは次回のブログで。

 

東京池袋東口徒歩1分ジャズポップス専門音楽教室

セプテンバーミュージックスクール