セプテンバーミュージックスクール代表の細川です。

今回からは私が長年かけて取り組まざるを得なかったアンブシュアについてのお話しです。

アンブシュアを変える、変わる、矯正する、治し方、、色々な表現で話が出ます。そしてそのどれもが辛い悩みだという事を私は痛切に感じることが出来るのです。

前編では私がアンブシュアを崩すに至るまでのお話、そして後編は私がアンブシュアを再構築し確立するまでと、この問題に悩んでおられる方々に実際に私のレッスンで変えることについてやっている事、私自身が今も行っている事を話してゆきます。

そこには、歯の問題、メンタルの問題も含まれます。

 

セプテンバーミュージックスクール「アンブシュア矯正コース」はこちらをご覧ください。

 

トランペットはじめ、金管楽器奏者の方にとって参考になればと思いここに記してゆきます。

それではどうぞ。

 

30年振りの吹奏楽部メンバーとの再会そして共演

私は先日、浜松アクトシティ中ホールで行われた我が母校、浜松商業高等学校吹奏楽部、そしてそのOBOGが結成した浜松商業高等学校OBOG吹奏楽団と現役高校吹奏楽団との合同演奏ステージに参加し一緒にトランペット演奏をしてきました。

母校のメンバーと一緒に演奏するのは卒業以来となり、実に30年振りでした。

当時は怖かった先輩や、おそらく僕を怖いと思っていたであろう後輩たち、そして30年ぶりに会ったのに、まるで昨日も一緒にいたかのように時間がすぐに埋め戻せる不思議な関係なのはやはり同級生たち。

そんな仲間と一緒に演奏出来たことは本当に「楽器を続けてて良かったな、こんな日がくるのか」としみじみと感じた事でした。

ステージには立ちませんでしたが、当時の吹奏楽部で一緒に演奏していた同級生も多数聴きに来て下さっていて、終演後にはアクトシティ中ホールのロビーで立ち話が尽きないほどでした。

それから現役浜商吹奏楽部の演奏は本当に素晴らしく華やかで、私たちの頃よりずっと上手に演奏をしていた印象でした。練習の賜物でしょう、そして指導者が素晴らしいのでしょう、一人ひとりの演奏が本当にレベルが高く、ただただ目を丸くして、彼らの演奏を聴き入っていました。。

 

この再会を機に悟ったこと、そして決意したこと

ただ、私にはここまで来るまでには、アンブシュアを崩し、そして再起をかけた日々がありました。

そしてトランペットを辞めずに続けた結果、またここに戻って来られたのです。

今回から、いくかに分けて、アンブシュアについてのお話しとそれまでの私の辿ったトランペット人生のお話しをしたいと思います。

正直、思い起こすことも辛い事実も沢山あります。

しかし、アンブシュアについて悩んでおられる金管奏者が少なからずいることは容易に想像がつきます。

そして、大変辛い思いで日々、トランペットを始め自身の楽器と向き合っている方もおられるでしょう。

年齢も性別も国籍も一切関係がなく、アンブシュアについての悩みを抱えている方のお役に立てればと心より願っています。

これゆえ、このブログには辛かった事、恥ずかしい事、事実をすべて書いておこうと思います。

ブログには人名固有名詞はなるべく避けて書いておりますが、真実を語るうえで書かざるを得ない部分があります。

当方がご本人への申請をしていない、または許可がとれていない段階ではイニシャルでの表記とさせていただくことをご了承ください。

 

トランペットと出会いは、雷に撃たれた程の衝撃だった

私は小学生の時にトランペットを始めました。確か4年生の頃だったと思います。

私は父の仕事の関係で転勤が多く、小学校は4校通ったと記憶しています。

最初の転校先に鼓笛隊がありました。

そこで先輩が吹くトランペット、トロンボーン、ユーフォニアム、アルトホルンを生まれて初めて、見て、聴いて、本当に感動をしたことを覚えています。

朝、登校すると音楽室から先輩方の吹く朝練習の音が聞こえてきました。

曲名も分かりませんが、ブラスサウンドの迫力は、いままで聞いたことも、経験したこともない未知の経験で、雷に打たれたかのような、そんな体が震えるほど興奮をしたものでした。

その感動は今でも忘れません。

クラブ活動が許される4年生(?だったと思います)になりトランペットパートの募集があり、私はもちろんエントリーしました。

当時トランペットは皆の憧れ、花形の楽器で誰もがトランペットを吹きたくて集まってきていました。

確か20人ほどはいたと思います。

オーディションをするという事で、マウスピースだけ渡され上手く鳴らせた人から合格、そのような事がありました。

初めて触るトランペットのマウスピース、もちろん吹き方なんて知りません。

ブゥ~(ビィ~、のほうが近いかも?)

幸い私は、良く鳴りました。

鳴らせなかった同級生もいました。しかし私は鳴ったのです。

嬉しかった事はよく覚えています。

クラブ活動も本格的に始まり、練習が楽しくて仕方なかった日々を思い出します。

音楽室と廊下が寒かった、、というおぼろげな記憶だけがあります。もしかしたら冬だったのかも知れません。

クラスメイトも何人もトランペットを一緒に吹きました。

トランペット人生がここに始まりました。

スタートは同級生みな一緒でした。

ところが。。

しばらくすると、クラスメイトはどんどん私より上手になり、しかも私より楽にコントロールしているように見えてきました。。

そう、僕は初めて同時にスタートしたはずのトランペットの演奏が皆より上手に出来ていないことに、うすうす、気づき始めていたのです。

 

アンブシュアを崩す原因が始まった

発表会のようなものが校内の体育館で行われて、私もクラスメイトも同じ曲、同じパートを練習していましたが、

私にはどうしても出せない高い音がありました。

クラスメイトは余裕でその音を吹いていました。

焦る。。という感覚を初めて自覚した出来事でした。

そこから私は彼のフォームなどを真似して吹いてみたりしました。

マウスピースの位置をずらして吹くと高い音が出たり、でも低い音は出なかったり。。

だんだん、気持ちよく鳴らせる事とは別の方向に、練習すれば練習するほど

悩みは深くなっていったのです。

 

時は経ち。。

中学生の頃も相変わらず転校があり、その先々の吹奏楽部でトランペットを吹いていましたが高校進学をきっかけに深刻な事態に陥ることとなってゆきました。

 

私の進学した学校は浜松商業高等学校といい、我々入学と同時に吹奏楽部は市内の楽器演奏が上手な同級生が集まって来ていました。

トランペットも皆とても上手な同級生ばかり。

私は少しでも追いつこうと試行錯誤を繰り返してゆきます。

しかし自己流の限界だったのでしょうね。一年生の早くからアンブシュアを崩し、

まともにトランペットを鳴らすことが出来なくなってしまいました。

音もガサガサでもう、最悪です。

結果、私はコンクールに出場どころか真ん中のFの音もまともに鳴らせないほどになってしまいました。

3年間一度もレギュラーには座れず、後輩に追い抜かれ。。

コンクールの合奏メンバーからは外れたので、一人、暗くなる校庭で練習を続ける日々となりました。。

本当に辛い現実を、どう受け止めら良いのかわかりませんでした。

こんなにトランペットが好きなのに。。なぜ?。。

そんな気持ちばかりが僕を支配していました。

 

音楽の道へ本格的に進む 悩みはさらに深くなる

高校を卒業し、私はそれでも再起をかけて東京で音楽を学ぶことを選択しました。

音楽の専門学校に通い、もう一つとても興味のあった作編曲を学びます。

当時ジャズトランぺッターとして、またテレビCMの作曲家として大変活躍されていたM先生が講師としておられました。

私は彼から作曲の事、そしてトランペット、そしてジャズはどのように習得するか、またその練習方法を学びました。

専門学校卒業後はM先生のアシスタントとして弟子入りし、毎日傍でCM制作の現場でレコーディングスタジオでスタジオワークを学び、そして先生が時々自分の練習に私を付き合わせ一緒に吹かせていただいたものでした。

プロの音は、これまで私が知っている世界の演奏とはまるで違うレベルに接し、本当にびっくりしたことを思い出します。

 

しかし奏法、という観点から私のアンブシュアには劇的な改善はないまま、音楽活動は広がって行きました。

そして私にも真剣に将来を語れる音楽仲間が出来、彼ら彼女らとライブやデモンストレーション録音などを続け、やがてプロのバンドで演奏する事が出来るようになり、有名なサックスプレイヤーUさんに出会います。

彼のバンドに誘われ、全員プロのミュージシャンの中でステージ演奏を重ねる中で、決定的に私自身のトランペット演奏に現在の実力との差がはっきりとわかりました。

 

圧倒的に足りない。。

 

今のままではいずれ引退を余儀なくされる。。

悔しい、、本当に悔しい。。

 

もう一つだけ残された道がある。。

それはアンブシュア改造、きちんと鳴らせられる奏法を習得する事。。

 

引退を覚悟出来るなら、その道に賭けてみよう。。

 

私は重大な決意をしなければならない、と悟ったのです。

 

 

続きは次回のブログで。

東京都池袋駅東口徒歩1分 セプテンバーミュージックスクール

 

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